この非常事態に神殿は土地神を起こして結界を完全な状態に戻す方法を選ぶしかないのだろう。そのために花嫁を差し出すという手段は有効である。
だが、過去の幽鬼との戦いでちからを使いすぎたために深い眠りに落ちた竜神を無理矢理起こしてもいいものなのだろうか。 ――でも、竜神さまを起こすために、竜糸の神殿にいる人間以外で、強いちからを持つ少女が必要だったから、桜月夜は師匠のところで何も知らずにいたあたしを迎えに来たんだよね? 土地神の強力な加護を持つ神術者、もしくはそれとは逆に土地そのものに忠誠を誓うことでちからを手に入れ逆さ斎でありながら神皇帝に認められた逆井一族。竜糸の地には眠りについた竜神の代理として『天』の血統にあたる大樹と逆井一族の里桜が君臨している。そのふたりを補佐するのもまた、桜月夜の守人と呼ばれる強い加護を持つ神職者たち。代理神と桜月夜の守人と比べると、姓を持たない逆さ斎の未晩のちからは弱い。だが、その未晩のもとですこしずつ学び、五つの加護に沿った神術体系をひととおり取得している朱華には、竜神と旧知のあいだにあるという茜桜が封じた未知数のちからが隠されている。竜神と交流することのできる代理神なら、朱華になんらかのちからが封じられていることも、事前に察知できたに違いない。
だから、未晩は朱華のちからが完全なものになったらすぐに夫婦神の誓いを吟じさせ、神殿に騙し討ちするような形で自分のものにしたかったのだろう。
裏緋寒の乙女が必要となった際の神殿に、朱華の存在を感づかれる前に。 けれど大樹がいなくなってしまったことで、神殿は慌てて竜神の花嫁候補を探すことになり、封印が解かれる前の朱華に白羽の矢が立ってしまった。つまりそれは、未晩の目論見が、外れたということ。
自分の妻にしようと記憶を操作してまで傍に置いていたのに、あっさり神殿に連れて行かれた朱華が竜神の花嫁にされることを、彼はどう思うのだろう。 「……だめだ。ぜんぜんわからないや」 父代わり、兄代わり、そして恋人代わりとして傍において溺愛してくれた未晩のこと「貴女が邪魔だからよ。裏緋寒の乙女」 目をこらして正面を見つめると、そこには白い浄衣に緋色の袴を着た少女が立っていた。神殿に仕える巫女のひとりだろう。朱華が少女に気づいたのを見て、ふんっと少女は嘲るように鼻を鳴らす。 そして、朱華が唱えたのと同じ、風の古語を唱える。 瘴気は一瞬で霧散した。だが、その瘴気を浴びた少女の瞳が禍々しいまでの赤へ色を変えていた。 「……闇鬼」 負の感情に引きずられて生まれる瘴気を糧に、人間に寄生し支配する異形のモノ。 一説には幽鬼が神々に対抗するために生み出したとも言われる、心の闇を巣食う鬼。 それが、目の前の巫女装束の少女に、憑いている。未晩のように、飼いならしているのとは違う、すべてを喰われて自分を見失った状態だ。 血のように赤黒い双眸が、朱華を睨みつける。 獲物を見つけた闇鬼は妖艶な笑みを浮かべて襲いかかってきた! 「――竜糸の土地神であられる竜頭さまの花嫁など、認めるものか!」 即座に朱華は跳躍する。雨鷺が着飾ってくれた白菫色の袿をゆらゆらはためかせながら、恨み事を叫びつづける巫女の攻撃を避けていく。『雪』の加護を持っていたのか、巫女が繰り出す術は氷の飛礫を投げつけるものだった。「そんなこと言われてもっ! 一方的に選ばれたあたしの身にもなってよ!」 朱華の想像以上に素早い身のこなしに相手も焦りを見せたのか、氷の飛礫の数が増えていく。火を召喚して反撃しようにも、増えつづける氷の塊は容赦なく朱華にぶつかっていく。ひとつひとつの塊はちいさくても、ぶつかると溶けることなく突き刺さったまま残ってしまう厄介な凶器は、朱華が気づかぬ間に袿を切り裂き、白い肌を露出させていた。そこへ鋭利な氷の刃が掠り、舞っていた朱華の身体を傷つける。「痛っ……!」 太腿からつぅと赤い血が流れ、石の床に叩きつけられたのを見計らったように、巫女が手にしていたおおきな氷の剣を朱華の胸元へ下ろされていく。 ――殺されるっ!?
「……まさかこんなところまで鬼が侵入しているとはな」 颯月に助け出された朱華は悔しそうに呟く夜澄の言葉に顔を向ける。「えっと、それってどういうこと?」 氷の刃によって切り裂かれた袿をぎゅっと抱きしめて、朱華は尋ねる。夜澄は自分が着ていた白い浄衣を無言で脱ぎはじめ、ひょいと朱華に投げつける。「そんな恰好でうろちょろするな」 「……す、すいません」 闇鬼に襲われた朱華の恰好は見るも無残な状態になっている。長身の夜澄の浄衣を受け取った朱華は慌てて被り、素直に謝る。「いえ。謝るべきなのはわたしたちの方です。神殿内だからと貴女をひとりにしてしまい、このような目に合わせてしまうとは……」 「ごめんね。もうこっちに来てるとは思わなかったからさ」 どうやら桜月夜は朱華がまだ雨鷺とともに身支度をしていると思っていたらしい。そのため里桜との面会の場に入る前に別の場所で一仕事していたようだ。そこで闇鬼の気配を感じた颯月が飛び込んできたということだろう。朱華は平気だと首をぶんぶん振って言い返す。「あ、あたしは大丈夫です! こう見えても神術はひととおり取得してますし、身のこなしだってふつうの女の子に比べたらぜんぜん」 「震えてる癖に何強がってんだよ」 小声ながらも厳しい夜澄の言葉が投げつけられ、びく。と、朱華の肩が反応する。 けれど、その声はすでに闇鬼に堕ちた少女の処遇について話しはじめた他の桜月夜の耳には届いていないようだ。「そ、そんなこと……」 慌てて夜澄に反論しようとして、朱華は言葉を切る。夜澄の琥珀色の瞳が、険しく揺れていた。「神殿内には竜頭……竜糸の竜神さまの名だ……の花嫁に選ばれたお前のことを素直に受け入れられない人間もいる。それに、瘴気を塞ぐ結界が緩んでいることもあって、この神殿にも悪しき気配が侵入しやすい状態になっている。さっきお前を襲った巫女はお前さえいなければ自分が竜頭の花嫁になるのだと潜んでいた闇鬼に囁かれでもしたのだろう」 神殿に仕える巫女は土地神にすべてを捧げる運命にある。彼女たちが土地
「ふうん。夜澄は詳しいんだね」 「俺があの三人のなかでいちばん古株なだけだ」 だから自然とお前の面倒を押しつけられるってわけだな。と、毒づきながら、夜澄は朱華が被った浄衣をぺろりとめくると傷ついた身体に治癒術を施しはじめる。露わになっ太腿に夜澄の手があてられ、朱華は慌てて撥ね退ける。「こ、これくらい平気だって!」 「あいつらは俺にお前の事後処理を任せて出て行ったんだ。おとなしく治療されろ」 「治癒術ならあたしひとりででき……痛っ」 「血が止まってないのに興奮するからだ。それに、さっきまで闇鬼とやりあってちからを使っただろう? 消耗してるときに自分で治癒術をかけたりしたら逆に回復が遅くなるぞ」 「……はーい」 赤面したままの朱華は渋々頷き、夜澄に身体を寄せる。緊張しているのが伝わったのか、夜澄は朱華の手を取ると、室の奥に並ぶ石の箱に連れていく。どうやらあれは椅子だったらしい。 朱華を座らせ、夜澄は手際よく術を発動させていく。太腿に負わされた傷だけでなく、身体中を掠ったちいさな傷も、夜澄が唱えたどこか懐かしさを抱かせる言葉によってあっという間に消えていった。彼もまた、古き時代の神謡を深く識る神に携わる人間なのだと朱華は痛感し、ふと疑問に思う。「あの」 「なんだ?」「夜澄は、いつからここにいるの」 桜月夜の守人のなかでいちばん古株だと口にしていたのを思い出し、朱華は問いかける。夜澄はしまった、というような表情を浮かべたものの、朱華の問いに正直に応えを返す。「竜頭が眠りにつく前から」 「……それって、百年以上前のことでしょ? 冗談」 「冗談だと思いたければそう思えばいい。でも、俺は竜頭のことを知っているし彼に頼まれたからずっとこの地で結界を護る代理神の補佐をつづけている」 琥珀色の瞳は淋しそうに煌めき、黙り込む朱華をしずかに見下ろしている。「だから、大樹が消えたいま、お前が必要なんだ」 ――竜神の、竜頭の花嫁になってくれ。 夜澄が朱華の前へ跪き、切実な想
「――ああ」 息をのむ。 半ば強引にこじ開けられていく記憶の抽斗から、ぽろりぽろりと朱華の脳裡に断片が溢れだす。 いまから十年前。 朱華の両親は竜糸を襲った流行病で死んでしまったと未晩は言っていたけれど……それは、嘘だ。 雲桜の花神。 朱華は彼のことを知っていた。 茜桜。 彼こそが、自分の生まれ故郷の土地神、で――…… 「竜糸の竜神、竜頭は、茜桜と親しかった。だから、雲桜が幽鬼によって滅ぼされた際に、神殿は落ちのびた『雲』の民を匿った。当時の代理神は加護を失った彼らに『雨』のちからを分け与えたため、彼らはちからの弱いルヤンペアッテとなった」 「……あたしも、そのルヤンペアッテの加護を少しだけ分けてもらったんだね」「だが稀に、土地神が死んでも産まれた集落の加護を失わない人間もいる。お前の『雨』の加護のちからが微弱なのは、『雲』の加護を失うことなく竜糸の地に辿りついたからだろう」 「土地神が死んでも、加護が消えないなんてことがあるの?」 「ああ。雲桜が滅んだとき、竜糸では流行病が蔓延していた。『雲』の加護は治癒術に秀でていることから、代理神は加護を失わずに済んだ『雲』の生き残りに病の治療をさせたのさ」 未晩が朱華に言っていた、竜糸で十年前に起きた流行病というのは嘘ではなかったようだ。うん、と頷く朱華に、夜澄は自嘲するように言葉をつづける。「神殿は集落を失った難民を引き取るかわりに、『雲』のちからを自分たちのものにしようとした。でも、それは一時的なものでしかなかった。『雲』のちからは『天』に等しくときに世界を動かすんだ。竜神が眠った状態で竜糸の神職者たちが求めてはいけないちからだったのさ」 世界を動かすといわれる『雲』のちから。そして、それを欲した竜糸の神殿勢力。けれど、夜澄の言葉は、『雲』のちからを神殿が取りこむことに失敗したことを示していた。「それってどういう……」 「病の終息とともに、『雲』のちからを持っていた生き残りが死んでいった。病人が持っていた瘴気が、集落を滅ぼされ
「え、じゃあ、裏緋寒の乙女ってのは竜糸の竜神さまの花嫁って意味ではないの?」 「表緋寒と裏緋寒はカイムの神殿用語だ。表緋寒は神職者として土地神に仕える女性や、土地神の加護が強い既婚女性。神嫁の別称でもある裏緋寒というのは神職者ではないが強い土地神の加護と神々を悦ばせる桜蜜を持つ未婚女性で……率直に言えば神の子を孕める器の持ち主のことだ。だから集落によっては神に弄ばれる愛玩花嫁などと蔑む場所もある」 「それで、師匠も知っていたのね」 未晩が逆さ斎なら、神殿用語にも詳しいはずである。「だろうな。神無の地を離れたはぐれ逆斎のようだが、お前を大事に扱っていたことを考えると、至高神が彼にお前を託したのかもしれん。あの天神は目的のためならどんなことでもするからな……」 ぼそりと呟く夜澄のぼやきを朱華は聞き逃していた。至高神が自分に関わりを持っていると明かされた時点で、すでにあたまのなかはぐちゃぐちゃになっているのだ、これ以上あれこれ言われてもすべてを飲み込めるほど朱華は器用ではない。「……と、とにかくカイムの集落の土地神の後継をもうけるため、至高神が竜糸の眠れる竜神さまの花嫁として、もうすぐちからを返却する予定のあたしを指名したってこと?」 まあな、と首肯しながら夜澄は苦い顔をする。「だが、逆さ斎が記憶を書き換えたことでお前は自分が何者かわからないまま、今日まで来てしまった。おまけに、お前のちからが預けられた状態のまま、半神である大樹さまが行方知らずになってしまった……いま、竜糸の結界は表緋寒ひとりで保たせているのが現状だ」 「だから、瘴気が神殿内にまで侵入しているの?」 「それにしては瘴気の量が多いのが気になるが。すでに幽鬼に気づかれた可能性も考えておかねばならないな」 「そんな」 ほんのすこし負の感情に傾いただけで、闇鬼に憑かれて自分を殺そうとした巫女を思い出し、朱華は身震いする。それを怯えと捉えたのか、夜澄は子どもをあやすようにそっと、彼女の玉虫色の髪を梳きはじめる。「もう、ひとりにはしない。お前が竜頭の花嫁として迎えられるそのときまで、桜月夜の総代として、俺が護
――けれど朱華はもう、ここのつの幼子ではない。「それまでにあたし、記憶を思い出す。それで、里桜さまとともに竜神さまを起こすから!」 未晩に甘やかされたまま、怖い夢や漠然とした不安など、いままで彼が飼っていた闇鬼にぜんぶあげていたけれど。 それじゃあいけないんだとぎゅっと拳を握りしめる。「そしたら、戻ってきたちからを使って大樹さまを探すお手伝いもするし、竜神さまに認められる花嫁になれるよう修業も頑張る!」 目の前にいる彼に誓いたかった。迷惑だと思われても、声にだしてこの決意を伝えたかった。竜神が眠りにつく前から守人をしている彼のために、心の底から役に立ちたいと思ったのだ。「お前……なぜそこまで」 困惑する表情の夜澄を見ても、朱華の気持ちは変わらない。彼が自分たちの『雲』の民を見捨てたことを後悔している姿を、責めるのは見当違いだ。そんなことをしても死んでしまった命は還らないのだ。それならいま、自分にできることをして、雲桜のような悲劇を防ぎたい。「なぜって。もう誰にも死んでもらいたくないからよ?」 当然のように返す朱華に、夜澄が呆気にとられている。 もう誰にも死んでもらいたくない。朱華の心の奥底から自然と湧きあがるように生まれた言葉。 それは記憶がない状態でも、揺らぐことのない、本心だった。「――ならばまずは、お前が真実(まこと)に桜蜜を分泌させる処女(おとめ)たるか、この場で確認させてもらおう……下衣を脱いでくれ」 「……えっ」 そんな朱華の覚悟を前に、夜澄が申し訳なさそうに宣言する。 そして、座っていた椅子から立ち上がり、朱華に被せていた己の上衣を剥ぎ取り、脚をひろげさせる。 恥ずかしい格好のまま、下半身を晒せと命じられ、朱華は目をまるくする。けれど、竜神の花嫁になるためには必要なことなのだと理解し、菫色の瞳を潤ませたまま、言われるがままに下衣をおろす。 夜澄によって治療された場所が、妙に疼く。「さわるぞ……まずはちいさくて可憐な花の蕾から」 「……あっ、そこはだめっ…
* * * 「それだけですか?」 「夜澄が彼女の面倒をみてくれるというのなら、あたくしがしゃしゃりでるのもどうかと思うわ。守り人が神嫁を教育すること自体、別におかしなことはないでしょう?」 里桜は神殿内で闇鬼に堕ちた人間が現れた報告を颯月から受け、ついに来たかと嘆息する。しかも裏緋寒の乙女として迎えたばかりの少女を殺そうとしたという。桜月夜によって辛うじて難を逃れたというが、この先も同じようなことが起きる可能性は高い。土地神の花嫁となるものなど、幽鬼にとってみれば邪魔でしかない。彼女の正体が知れれば、眠ったままの竜頭より先に葬ろうとするだろう。 そこで夜澄が珍しく自ら彼女の護衛につくと言いだしたらしい。ふだんは厄介なことほど星河や颯月に押しつけてふらふらしているくせに、と反発を覚えながらも、桜月夜のなかでいちばん強いちからを持っているのは彼だったなと里桜は思い直し、素直に受け止める。彼が裏緋寒の乙女を護る気でいるのなら、任せた方がいいだろう。竜頭の花嫁となるであろう少女だ、意地悪などしないと思いたい。 だが、颯月はすこしばかし不満らしい。たしかに、大樹が不在のなかひとり代理神を務める里桜よりも裏緋寒の乙女を優先する姿は、神殿内でも疑問の声があがるだろう。このまま彼が裏緋寒の乙女を自分のものにするのではないかと危惧する声がでてくるのも時間の問題かもしれない。きっと颯月もそう思ったから、里桜に意見したのだ。 裏緋寒の乙女が眠りから醒めた竜神の花嫁にすんなりおさまるためにも、夜澄ひとりにまかせっきりにするのが不安だから、颯月は里桜の前で途方に暮れた顔をしているのだ。「でも……」 「颯月。あなたは夕暮れまで引き続き大樹さまの居場所をあたってみてほしいわ。『風』の加護を持つあなたしか、長い時間集落の外をでて動くことができないのだから」 桜月夜だからといって、常に一緒に行動する必要はない。それぞれが持つ加護のちからを最大限に生かして、この危機的状況を打開する方が大切である。 それに、過去を知る夜澄が過激な花嫁修業をひとりで担ってくれることに、どこかでほっとしている自分もいた。土地神と契る
「どう思う?」 「……なんで振るんですかわたしに」 朱華を襲った巫女を地下牢へ入れたのち、里桜への報告のため颯月とともに訪れた星河だったが、ほとんど言いたいことは言われてしまった。残された星河は里桜の言葉を受けて、硬直している。「客観的に物事を分析するためにあなたの意見もききたいと思ったのよ」 「そうですか」 なかば諦めたように星河は笑う。自分より十近く年齢の離れた少女に言われても説得感があるのはやはり選ばれた代理神の半神だからだろうか。「ですが、わたしがどう思おうが、里桜さまはそのままでいいとお考えでしょう?」 裏緋寒として神殿に入った朱華には自分の加護に関する記憶が失われていたという。カイムの土地神の加護のことを、逆さ斎の里桜は浅くしか知らない。大樹がいないいま、知識を与える適任者は竜頭が起きていた頃を知る夜澄しかいないのも事実だ。里桜は頷いて、話を変える。「はぐれ逆さ斎が記憶を改竄したんですって? 至高神に逆らってまで、彼女を自分のモノにしようとしたなんて……」 それともこれも、至高神が采配を施しているのだろうか。いまここに大樹がいれば真意を問えるのに。里桜は悔しげに口元を歪める。「その逆さ斎なら、颯月が瘴気を払っております。問題はないかと」 「大ありよ! 代理神が不完全ないま、瘴気を払って放置しただけなんでしょう? ……すでに竜糸の結界は綻んでいる。払っても払っても根本を断たなければ同じことを繰り返す可能性がある……もし、裏緋寒を諦めきれずに彼が自ら闇鬼のために瘴気を取り込んだら?」 相手は逆井の姓を持たないとはいえ、自分と同じ逆さ斎だ。ひととおりの術式も扱えるに違いない。記憶まで操ることが可能なことを考えると、至高神に預けられたちからを持つ朱華を保護していたという未晩はかなりの術者のようだ。まぁ、それだから裏緋寒の番人として至高神に重宝されたのかもしれないが…… そんな未晩が、神殿に乗り込んできたら……大樹がいない、竜頭が眠ったままの状態で対抗するのは厳しいだろう。そう指摘されて、星河の表情が青くなる。「……それは」
「どう思う?」 「……なんで振るんですかわたしに」 朱華を襲った巫女を地下牢へ入れたのち、里桜への報告のため颯月とともに訪れた星河だったが、ほとんど言いたいことは言われてしまった。残された星河は里桜の言葉を受けて、硬直している。「客観的に物事を分析するためにあなたの意見もききたいと思ったのよ」 「そうですか」 なかば諦めたように星河は笑う。自分より十近く年齢の離れた少女に言われても説得感があるのはやはり選ばれた代理神の半神だからだろうか。「ですが、わたしがどう思おうが、里桜さまはそのままでいいとお考えでしょう?」 裏緋寒として神殿に入った朱華には自分の加護に関する記憶が失われていたという。カイムの土地神の加護のことを、逆さ斎の里桜は浅くしか知らない。大樹がいないいま、知識を与える適任者は竜頭が起きていた頃を知る夜澄しかいないのも事実だ。里桜は頷いて、話を変える。「はぐれ逆さ斎が記憶を改竄したんですって? 至高神に逆らってまで、彼女を自分のモノにしようとしたなんて……」 それともこれも、至高神が采配を施しているのだろうか。いまここに大樹がいれば真意を問えるのに。里桜は悔しげに口元を歪める。「その逆さ斎なら、颯月が瘴気を払っております。問題はないかと」 「大ありよ! 代理神が不完全ないま、瘴気を払って放置しただけなんでしょう? ……すでに竜糸の結界は綻んでいる。払っても払っても根本を断たなければ同じことを繰り返す可能性がある……もし、裏緋寒を諦めきれずに彼が自ら闇鬼のために瘴気を取り込んだら?」 相手は逆井の姓を持たないとはいえ、自分と同じ逆さ斎だ。ひととおりの術式も扱えるに違いない。記憶まで操ることが可能なことを考えると、至高神に預けられたちからを持つ朱華を保護していたという未晩はかなりの術者のようだ。まぁ、それだから裏緋寒の番人として至高神に重宝されたのかもしれないが…… そんな未晩が、神殿に乗り込んできたら……大樹がいない、竜頭が眠ったままの状態で対抗するのは厳しいだろう。そう指摘されて、星河の表情が青くなる。「……それは」
* * * 「それだけですか?」 「夜澄が彼女の面倒をみてくれるというのなら、あたくしがしゃしゃりでるのもどうかと思うわ。守り人が神嫁を教育すること自体、別におかしなことはないでしょう?」 里桜は神殿内で闇鬼に堕ちた人間が現れた報告を颯月から受け、ついに来たかと嘆息する。しかも裏緋寒の乙女として迎えたばかりの少女を殺そうとしたという。桜月夜によって辛うじて難を逃れたというが、この先も同じようなことが起きる可能性は高い。土地神の花嫁となるものなど、幽鬼にとってみれば邪魔でしかない。彼女の正体が知れれば、眠ったままの竜頭より先に葬ろうとするだろう。 そこで夜澄が珍しく自ら彼女の護衛につくと言いだしたらしい。ふだんは厄介なことほど星河や颯月に押しつけてふらふらしているくせに、と反発を覚えながらも、桜月夜のなかでいちばん強いちからを持っているのは彼だったなと里桜は思い直し、素直に受け止める。彼が裏緋寒の乙女を護る気でいるのなら、任せた方がいいだろう。竜頭の花嫁となるであろう少女だ、意地悪などしないと思いたい。 だが、颯月はすこしばかし不満らしい。たしかに、大樹が不在のなかひとり代理神を務める里桜よりも裏緋寒の乙女を優先する姿は、神殿内でも疑問の声があがるだろう。このまま彼が裏緋寒の乙女を自分のものにするのではないかと危惧する声がでてくるのも時間の問題かもしれない。きっと颯月もそう思ったから、里桜に意見したのだ。 裏緋寒の乙女が眠りから醒めた竜神の花嫁にすんなりおさまるためにも、夜澄ひとりにまかせっきりにするのが不安だから、颯月は里桜の前で途方に暮れた顔をしているのだ。「でも……」 「颯月。あなたは夕暮れまで引き続き大樹さまの居場所をあたってみてほしいわ。『風』の加護を持つあなたしか、長い時間集落の外をでて動くことができないのだから」 桜月夜だからといって、常に一緒に行動する必要はない。それぞれが持つ加護のちからを最大限に生かして、この危機的状況を打開する方が大切である。 それに、過去を知る夜澄が過激な花嫁修業をひとりで担ってくれることに、どこかでほっとしている自分もいた。土地神と契る
――けれど朱華はもう、ここのつの幼子ではない。「それまでにあたし、記憶を思い出す。それで、里桜さまとともに竜神さまを起こすから!」 未晩に甘やかされたまま、怖い夢や漠然とした不安など、いままで彼が飼っていた闇鬼にぜんぶあげていたけれど。 それじゃあいけないんだとぎゅっと拳を握りしめる。「そしたら、戻ってきたちからを使って大樹さまを探すお手伝いもするし、竜神さまに認められる花嫁になれるよう修業も頑張る!」 目の前にいる彼に誓いたかった。迷惑だと思われても、声にだしてこの決意を伝えたかった。竜神が眠りにつく前から守人をしている彼のために、心の底から役に立ちたいと思ったのだ。「お前……なぜそこまで」 困惑する表情の夜澄を見ても、朱華の気持ちは変わらない。彼が自分たちの『雲』の民を見捨てたことを後悔している姿を、責めるのは見当違いだ。そんなことをしても死んでしまった命は還らないのだ。それならいま、自分にできることをして、雲桜のような悲劇を防ぎたい。「なぜって。もう誰にも死んでもらいたくないからよ?」 当然のように返す朱華に、夜澄が呆気にとられている。 もう誰にも死んでもらいたくない。朱華の心の奥底から自然と湧きあがるように生まれた言葉。 それは記憶がない状態でも、揺らぐことのない、本心だった。「――ならばまずは、お前が真実(まこと)に桜蜜を分泌させる処女(おとめ)たるか、この場で確認させてもらおう……下衣を脱いでくれ」 「……えっ」 そんな朱華の覚悟を前に、夜澄が申し訳なさそうに宣言する。 そして、座っていた椅子から立ち上がり、朱華に被せていた己の上衣を剥ぎ取り、脚をひろげさせる。 恥ずかしい格好のまま、下半身を晒せと命じられ、朱華は目をまるくする。けれど、竜神の花嫁になるためには必要なことなのだと理解し、菫色の瞳を潤ませたまま、言われるがままに下衣をおろす。 夜澄によって治療された場所が、妙に疼く。「さわるぞ……まずはちいさくて可憐な花の蕾から」 「……あっ、そこはだめっ…
「え、じゃあ、裏緋寒の乙女ってのは竜糸の竜神さまの花嫁って意味ではないの?」 「表緋寒と裏緋寒はカイムの神殿用語だ。表緋寒は神職者として土地神に仕える女性や、土地神の加護が強い既婚女性。神嫁の別称でもある裏緋寒というのは神職者ではないが強い土地神の加護と神々を悦ばせる桜蜜を持つ未婚女性で……率直に言えば神の子を孕める器の持ち主のことだ。だから集落によっては神に弄ばれる愛玩花嫁などと蔑む場所もある」 「それで、師匠も知っていたのね」 未晩が逆さ斎なら、神殿用語にも詳しいはずである。「だろうな。神無の地を離れたはぐれ逆斎のようだが、お前を大事に扱っていたことを考えると、至高神が彼にお前を託したのかもしれん。あの天神は目的のためならどんなことでもするからな……」 ぼそりと呟く夜澄のぼやきを朱華は聞き逃していた。至高神が自分に関わりを持っていると明かされた時点で、すでにあたまのなかはぐちゃぐちゃになっているのだ、これ以上あれこれ言われてもすべてを飲み込めるほど朱華は器用ではない。「……と、とにかくカイムの集落の土地神の後継をもうけるため、至高神が竜糸の眠れる竜神さまの花嫁として、もうすぐちからを返却する予定のあたしを指名したってこと?」 まあな、と首肯しながら夜澄は苦い顔をする。「だが、逆さ斎が記憶を書き換えたことでお前は自分が何者かわからないまま、今日まで来てしまった。おまけに、お前のちからが預けられた状態のまま、半神である大樹さまが行方知らずになってしまった……いま、竜糸の結界は表緋寒ひとりで保たせているのが現状だ」 「だから、瘴気が神殿内にまで侵入しているの?」 「それにしては瘴気の量が多いのが気になるが。すでに幽鬼に気づかれた可能性も考えておかねばならないな」 「そんな」 ほんのすこし負の感情に傾いただけで、闇鬼に憑かれて自分を殺そうとした巫女を思い出し、朱華は身震いする。それを怯えと捉えたのか、夜澄は子どもをあやすようにそっと、彼女の玉虫色の髪を梳きはじめる。「もう、ひとりにはしない。お前が竜頭の花嫁として迎えられるそのときまで、桜月夜の総代として、俺が護
「――ああ」 息をのむ。 半ば強引にこじ開けられていく記憶の抽斗から、ぽろりぽろりと朱華の脳裡に断片が溢れだす。 いまから十年前。 朱華の両親は竜糸を襲った流行病で死んでしまったと未晩は言っていたけれど……それは、嘘だ。 雲桜の花神。 朱華は彼のことを知っていた。 茜桜。 彼こそが、自分の生まれ故郷の土地神、で――…… 「竜糸の竜神、竜頭は、茜桜と親しかった。だから、雲桜が幽鬼によって滅ぼされた際に、神殿は落ちのびた『雲』の民を匿った。当時の代理神は加護を失った彼らに『雨』のちからを分け与えたため、彼らはちからの弱いルヤンペアッテとなった」 「……あたしも、そのルヤンペアッテの加護を少しだけ分けてもらったんだね」「だが稀に、土地神が死んでも産まれた集落の加護を失わない人間もいる。お前の『雨』の加護のちからが微弱なのは、『雲』の加護を失うことなく竜糸の地に辿りついたからだろう」 「土地神が死んでも、加護が消えないなんてことがあるの?」 「ああ。雲桜が滅んだとき、竜糸では流行病が蔓延していた。『雲』の加護は治癒術に秀でていることから、代理神は加護を失わずに済んだ『雲』の生き残りに病の治療をさせたのさ」 未晩が朱華に言っていた、竜糸で十年前に起きた流行病というのは嘘ではなかったようだ。うん、と頷く朱華に、夜澄は自嘲するように言葉をつづける。「神殿は集落を失った難民を引き取るかわりに、『雲』のちからを自分たちのものにしようとした。でも、それは一時的なものでしかなかった。『雲』のちからは『天』に等しくときに世界を動かすんだ。竜神が眠った状態で竜糸の神職者たちが求めてはいけないちからだったのさ」 世界を動かすといわれる『雲』のちから。そして、それを欲した竜糸の神殿勢力。けれど、夜澄の言葉は、『雲』のちからを神殿が取りこむことに失敗したことを示していた。「それってどういう……」 「病の終息とともに、『雲』のちからを持っていた生き残りが死んでいった。病人が持っていた瘴気が、集落を滅ぼされ
「ふうん。夜澄は詳しいんだね」 「俺があの三人のなかでいちばん古株なだけだ」 だから自然とお前の面倒を押しつけられるってわけだな。と、毒づきながら、夜澄は朱華が被った浄衣をぺろりとめくると傷ついた身体に治癒術を施しはじめる。露わになっ太腿に夜澄の手があてられ、朱華は慌てて撥ね退ける。「こ、これくらい平気だって!」 「あいつらは俺にお前の事後処理を任せて出て行ったんだ。おとなしく治療されろ」 「治癒術ならあたしひとりででき……痛っ」 「血が止まってないのに興奮するからだ。それに、さっきまで闇鬼とやりあってちからを使っただろう? 消耗してるときに自分で治癒術をかけたりしたら逆に回復が遅くなるぞ」 「……はーい」 赤面したままの朱華は渋々頷き、夜澄に身体を寄せる。緊張しているのが伝わったのか、夜澄は朱華の手を取ると、室の奥に並ぶ石の箱に連れていく。どうやらあれは椅子だったらしい。 朱華を座らせ、夜澄は手際よく術を発動させていく。太腿に負わされた傷だけでなく、身体中を掠ったちいさな傷も、夜澄が唱えたどこか懐かしさを抱かせる言葉によってあっという間に消えていった。彼もまた、古き時代の神謡を深く識る神に携わる人間なのだと朱華は痛感し、ふと疑問に思う。「あの」 「なんだ?」「夜澄は、いつからここにいるの」 桜月夜の守人のなかでいちばん古株だと口にしていたのを思い出し、朱華は問いかける。夜澄はしまった、というような表情を浮かべたものの、朱華の問いに正直に応えを返す。「竜頭が眠りにつく前から」 「……それって、百年以上前のことでしょ? 冗談」 「冗談だと思いたければそう思えばいい。でも、俺は竜頭のことを知っているし彼に頼まれたからずっとこの地で結界を護る代理神の補佐をつづけている」 琥珀色の瞳は淋しそうに煌めき、黙り込む朱華をしずかに見下ろしている。「だから、大樹が消えたいま、お前が必要なんだ」 ――竜神の、竜頭の花嫁になってくれ。 夜澄が朱華の前へ跪き、切実な想
「……まさかこんなところまで鬼が侵入しているとはな」 颯月に助け出された朱華は悔しそうに呟く夜澄の言葉に顔を向ける。「えっと、それってどういうこと?」 氷の刃によって切り裂かれた袿をぎゅっと抱きしめて、朱華は尋ねる。夜澄は自分が着ていた白い浄衣を無言で脱ぎはじめ、ひょいと朱華に投げつける。「そんな恰好でうろちょろするな」 「……す、すいません」 闇鬼に襲われた朱華の恰好は見るも無残な状態になっている。長身の夜澄の浄衣を受け取った朱華は慌てて被り、素直に謝る。「いえ。謝るべきなのはわたしたちの方です。神殿内だからと貴女をひとりにしてしまい、このような目に合わせてしまうとは……」 「ごめんね。もうこっちに来てるとは思わなかったからさ」 どうやら桜月夜は朱華がまだ雨鷺とともに身支度をしていると思っていたらしい。そのため里桜との面会の場に入る前に別の場所で一仕事していたようだ。そこで闇鬼の気配を感じた颯月が飛び込んできたということだろう。朱華は平気だと首をぶんぶん振って言い返す。「あ、あたしは大丈夫です! こう見えても神術はひととおり取得してますし、身のこなしだってふつうの女の子に比べたらぜんぜん」 「震えてる癖に何強がってんだよ」 小声ながらも厳しい夜澄の言葉が投げつけられ、びく。と、朱華の肩が反応する。 けれど、その声はすでに闇鬼に堕ちた少女の処遇について話しはじめた他の桜月夜の耳には届いていないようだ。「そ、そんなこと……」 慌てて夜澄に反論しようとして、朱華は言葉を切る。夜澄の琥珀色の瞳が、険しく揺れていた。「神殿内には竜頭……竜糸の竜神さまの名だ……の花嫁に選ばれたお前のことを素直に受け入れられない人間もいる。それに、瘴気を塞ぐ結界が緩んでいることもあって、この神殿にも悪しき気配が侵入しやすい状態になっている。さっきお前を襲った巫女はお前さえいなければ自分が竜頭の花嫁になるのだと潜んでいた闇鬼に囁かれでもしたのだろう」 神殿に仕える巫女は土地神にすべてを捧げる運命にある。彼女たちが土地
「貴女が邪魔だからよ。裏緋寒の乙女」 目をこらして正面を見つめると、そこには白い浄衣に緋色の袴を着た少女が立っていた。神殿に仕える巫女のひとりだろう。朱華が少女に気づいたのを見て、ふんっと少女は嘲るように鼻を鳴らす。 そして、朱華が唱えたのと同じ、風の古語を唱える。 瘴気は一瞬で霧散した。だが、その瘴気を浴びた少女の瞳が禍々しいまでの赤へ色を変えていた。 「……闇鬼」 負の感情に引きずられて生まれる瘴気を糧に、人間に寄生し支配する異形のモノ。 一説には幽鬼が神々に対抗するために生み出したとも言われる、心の闇を巣食う鬼。 それが、目の前の巫女装束の少女に、憑いている。未晩のように、飼いならしているのとは違う、すべてを喰われて自分を見失った状態だ。 血のように赤黒い双眸が、朱華を睨みつける。 獲物を見つけた闇鬼は妖艶な笑みを浮かべて襲いかかってきた! 「――竜糸の土地神であられる竜頭さまの花嫁など、認めるものか!」 即座に朱華は跳躍する。雨鷺が着飾ってくれた白菫色の袿をゆらゆらはためかせながら、恨み事を叫びつづける巫女の攻撃を避けていく。『雪』の加護を持っていたのか、巫女が繰り出す術は氷の飛礫を投げつけるものだった。「そんなこと言われてもっ! 一方的に選ばれたあたしの身にもなってよ!」 朱華の想像以上に素早い身のこなしに相手も焦りを見せたのか、氷の飛礫の数が増えていく。火を召喚して反撃しようにも、増えつづける氷の塊は容赦なく朱華にぶつかっていく。ひとつひとつの塊はちいさくても、ぶつかると溶けることなく突き刺さったまま残ってしまう厄介な凶器は、朱華が気づかぬ間に袿を切り裂き、白い肌を露出させていた。そこへ鋭利な氷の刃が掠り、舞っていた朱華の身体を傷つける。「痛っ……!」 太腿からつぅと赤い血が流れ、石の床に叩きつけられたのを見計らったように、巫女が手にしていたおおきな氷の剣を朱華の胸元へ下ろされていく。 ――殺されるっ!?
この非常事態に神殿は土地神を起こして結界を完全な状態に戻す方法を選ぶしかないのだろう。そのために花嫁を差し出すという手段は有効である。 だが、過去の幽鬼との戦いでちからを使いすぎたために深い眠りに落ちた竜神を無理矢理起こしてもいいものなのだろうか。 ――でも、竜神さまを起こすために、竜糸の神殿にいる人間以外で、強いちからを持つ少女が必要だったから、桜月夜は師匠のところで何も知らずにいたあたしを迎えに来たんだよね? 土地神の強力な加護を持つ神術者、もしくはそれとは逆に土地そのものに忠誠を誓うことでちからを手に入れ逆さ斎でありながら神皇帝に認められた逆井一族。竜糸の地には眠りについた竜神の代理として『天』の血統にあたる大樹と逆井一族の里桜が君臨している。そのふたりを補佐するのもまた、桜月夜の守人と呼ばれる強い加護を持つ神職者たち。 代理神と桜月夜の守人と比べると、姓を持たない逆さ斎の未晩のちからは弱い。だが、その未晩のもとですこしずつ学び、五つの加護に沿った神術体系をひととおり取得している朱華には、竜神と旧知のあいだにあるという茜桜が封じた未知数のちからが隠されている。竜神と交流することのできる代理神なら、朱華になんらかのちからが封じられていることも、事前に察知できたに違いない。 だから、未晩は朱華のちからが完全なものになったらすぐに夫婦神の誓いを吟じさせ、神殿に騙し討ちするような形で自分のものにしたかったのだろう。 裏緋寒の乙女が必要となった際の神殿に、朱華の存在を感づかれる前に。 けれど大樹がいなくなってしまったことで、神殿は慌てて竜神の花嫁候補を探すことになり、封印が解かれる前の朱華に白羽の矢が立ってしまった。 つまりそれは、未晩の目論見が、外れたということ。 自分の妻にしようと記憶を操作してまで傍に置いていたのに、あっさり神殿に連れて行かれた朱華が竜神の花嫁にされることを、彼はどう思うのだろう。 「……だめだ。ぜんぜんわからないや」 父代わり、兄代わり、そして恋人代わりとして傍において溺愛してくれた未晩のこと